特定非営利活動法人 日本から外科医がいなくなることを憂い行動する会(若手外科系医師を増やす会)

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若手医師へ外科医の熱き想いを伝える
~平成23年10月8日に「きみが外科医になる日」セミナーを開催~

目次

限りなき探求
慶應義塾大学 外科 現米国マイアミ大学移植外科臨床フェロー 日比 泰造先生

写真1-1

元々は肝胆膵移植外科を専門としている。国際がん研究機関によると、2008年の全世界の新規がん患者数は1270万人で、同年の死亡者数は760万人にものぼるという。2030年までに、がん患者数が2140万人、死亡者数は1320万人になるとすれば、これらの患者を治すには外科医の存在が欠かせない。
実際に私が携わった例について紹介しよう。1つは、血液型が合わない(ABO血液型不適合)患者への移植手術だ。47歳女性で3か月後の生存率は0%という厳しい状況だった。従来はABO血液型不適合の患者に対する移植手術は、生存率が限りなく0に近かったが、外科医たちの技術研鑽が実って生存率は飛躍的に上がってきた。何とか生きてもらいたいという一心で、移植手術に臨んだ。患者は手術前に「桜を見たい」と言ったので、手術スタッフや看護師などと一緒に病院前で写真を撮った。何気ない日常の風景に見えるが、彼女は「これが最後の桜かもしれない」と思って見たに違いない。残念ながら彼女の命は救えなかった。それは今でも悔やむし、もっとこうすればよかったのではないかと思わない日はない。外科医が患者を救えなかった場合、たとえどれだけスムーズに手術が進んだとしても、それを成功とは言えないのだ。

写真1-2

外科医には4つの「A」が必要だと思う。1つは「Artist」だ。特に高速道路の立体交差やジェットコースターの軌道と、血管の縫合は良く似ている。立体的な造形をイメージしながら組み立てる必要があるからだ。もう1つは「Athlete」。一流のアスリートと同じく、神経を研ぎ澄ませ、1つの手術を真剣勝負だと思って仕事をしなければならない。さらに「Architect」(枠組み)も必要だ。最後に「Ally」が来る。外科医はオーケストラの指揮者に例えられることがある。看護師やコメディカルなどすべてのスタッフを先頭で導く必要がある。そのための同士は、かけがえのない存在だ。私はこれからも、偉大なる先人を見習って、外科医として地球に貢献していきたいと思っている。

日比 泰造先生の公演内容はこちら(YouTube)

演者略歴

日比 泰造 先生
日比 泰造(ひび たいぞう)先生
マイアミ大学医学部 移植外科 臨床フェロー
慶應義塾大学 医学部
(1973年9月6日生)

学歴

1998年3月
慶應義塾大学医学部 卒業

職歴

1998年4月
横須賀米海軍病院 インターン
1999年5月
慶應義塾大学医学部外科学教室 研修医
2000年5月
多摩丘陵病院 出向
2001年5月
国立がんセンター中央病院 外科レジデント
2004年5月
国立がんセンター中央病院 がん専門修練医(肝胆膵外科)
2006年4月
慶應義塾大学医学部外科学教室 一般・消化器外科 専修医
2008年4月
慶應義塾大学医学部外科学教室 一般・消化器外科 助教(肝胆膵・移植)
2010年7月
マイアミ大学医学部 移植外科 臨床フェロー

学会

  • 日本外科学会専門医
  • 日本がん治療認定医
  • 日本消化器外科学会
  • 日本肝胆膵外科学会
  • 日本肝癌研究会
  • 日本膵臓学会
  • 日本移植学会
  • 日本肝移植研究会
  • American Society of Clinical Oncology
  • American Society of Transplant Surgeons

その他

2009年
ECFMG(Education Commission for Foreign Medical Graduate)
2010年
医学博士

女性医師の外科への取り組み-これまでとこれから-
鹿児島大学大学院 腫瘍学講座 消化器・乳腺甲状腺外科 診療講師
喜島 祐子先生

写真2-1

専門は「Oncoplastic Surgery」だ。乳がんの場合、おおよそ半数が乳房をできるだけ温存した手術が行われる。かつて乳がんと言えば、乳房を全摘することが主流の時代もあった。だが女性にとっての喪失感は大きく、現在では乳房を温存することが必ず考慮されるようになってきた。一口に温存手術と言っても、当然乳房の一部を切り取るわけだから、左右の形が違ってくるケースも出てくる。時には両方の乳頭の位置をずらす手術をしたり、時には下腹部から脂肪をとって乳房に注入したりして、整容性を考慮しながら手術することになる。私はこの分野を専門としている。
一方で私は女性外科医としてこれまでやってきた。特に、医師になってからほどなく結婚・出産を経験したため、卒後10年間はほとんどの時間は育児をしながらキャリアを築いてきた。私自身は、男性医師と同じスキルアップをしたいと思ったが、どうしても制約があった。そこで、外科医の仕事を「今は実現できないこと」や「やりたいこと」「できること」「しなければならないこと」に分けて考えた。その結果、「短期間の研修」や「デスクワーク」は今できることだと分かったので、育児の合間を縫った少ない時間でも、効率のいい研究ができたと思う。来場者の中には、女性で外科医を目指している人もいるだろう。いくらかの時間は男性医師と同様の仕事ができない可能性はあるが、まずは分析して、あせらずにできることから対応してほしい。

写真2-2

最後に、私が何とか外科医としてやってきて、それなりの成果を収めることができたのは、経験の豊富な先輩医師から言葉をたくさんもらったからだ。制約の多い自分を見捨てずに、懐の深さで対応してくれた諸先輩方のおかげでもある。そのことを決して忘れないで、これからも外科医として働いていきたい。

演者略歴

喜島 祐子 先生
喜島 祐子(きじま ゆうこ)先生
鹿児島大学大学院 腫瘍学講座 消化器・乳腺甲状腺外科 診療講師
(1968年5月12日生)

学歴

1993年3月
鹿児島大学医学部卒業
1993年5月
鹿児島大学医学部第一外科入局
1997年4月
鹿児島大学大学院医学研究科入学
2001年3月
鹿児島大学大学院医学研究科卒業

職歴

2001年4月
鹿児島大学医学部第一外科 医員
2003年4月
聖マリアンナ医科大学病院 横浜市西部病院形成外科
2003年10月
鹿児島大学医学部・歯学部附属病院 乳腺・内分泌外科 医員
2004年5月
鹿児島大学大学院医歯学総合研究科 腫瘍制御学 助手
2005年4月
鹿児島大学医学部・歯学部附属病院 乳腺・内分泌外科 助教
2007年9月
鹿児島大学医学部・歯学部附属病院 乳腺・内分泌外科 診療講師
2011年
鹿児島大学大学院腫瘍学講座 消化器・乳腺甲状腺外科 診療講師(所属先名称変更のため)

役職

鹿児島大学大学院 腫瘍学講座 消化器・乳腺甲状腺外科 診療講師

学会

  • 日本乳癌学会評議員
  • 日本乳癌検診学会評議員
  • 日本外科学会会員
  • 日本癌治療学会会員
  • 日本臨床外科学会会員

その他

専門分野
乳腺外科学(診断、外科治療)「整容性を考慮した乳癌治療および乳房再建に関する治療・研究」
資格
  • 日本外科学会(認定医、専門医)
  • 日本乳癌学会(認定医、専門医)

脊髄損傷患者さんを治したい
慶應義塾大学医学部 整形外科学 専任講師 中村 雅也先生

写真3-1

外科医になりたいと思う理由は様々だろう。私は「外科医になりたい」というよりも、脊髄損傷の患者を治したいという思いで外科医になった。いや、ある特定の脊損患者を治したいという思いと言った方が正確だろう。その特定の患者というのが彼だ。彼は慶應義塾大学医学部2年生の時、私を含めた仲間と一緒にスキーに出かけ、目の前で派手に転んで動けなくなった。彼を慶應義塾大学病院に連れて行ったとき、「ああ良かった、これで治る」と単純に思った。半年ほどたった時に手紙が来たので、仲間と一緒に彼の元へたずねた。玄関の扉を開けた瞬間に、顎で電動車椅子を操作していた彼の姿を見て、とてつもないショックを受けた。その時の思いが、今でも私を動かしているのだ。
私は脊髄外科のスペシャリストとして、年間100例ほどの手術を行っている。だが、脊髄損傷は治せない。これはあるラグビー部1年生のレントゲン写真だ。頚椎を脱臼している。治すのはそう難しくない。だが脱臼は治ってもこれ以下は動かないのだ。たったこれだけのことなのに、首から下が動かない。これが医療の限界だ。だが、限界をどうしても越えたいと思っている。そのアプローチの1つはサイエンスだ。実はこの分野においては、メディカルとサイエンスはつながると思っている。例えばiPS細胞を用いて脊髄損傷のマウスを治療した結果、それまでは引きずっていた下肢を支えることができるようになった。また、慢性期の脊髄に入り込んだ信号の阻害因子を薬で取り除く研究も進んでいる。

写真3-2

ただ、私は研究のための研究はしたくない。最初に挙げた彼を立たせるための研究をしたいということにこだわっている。脊髄損傷の患者を立たせるには、画一的な研究で救えるものではなく、ジグソーパズルをくみ上げるようなもので、中にはミッシング・ピースもある。それらを埋めるようにして、今も脊髄専門の外科医として働いている。
最後に、若手の医師に送りたい言葉として、「外科医としての技術」、「研究者としての科学」、「医師としての心」の3つが、1つも欠けることない医師を目指してほしいという言葉で締めくくる。

中村 雅也先生の公演内容はこちら(YouTube)

演者略歴

中村 雅也 先生
中村 雅也(なかむら まさや)先生
慶應義塾大学整形外科学教室専任講師
(1961年7月26日生)

学歴

1987年3月
慶應義塾大学医学部卒業

職歴

1987年5月
慶應義塾大学医学部研修医(整形外科)
1989年5月
慶應義塾大学医学部助手(専修医)(整形外科)
1990年7月
川崎市立川崎病院 整形外科
1993年7月
慶應義塾大学医学部助手(整形外科学)
1994年7月
荻窪病院 整形外科 医長
1998年1月
米国ジョージタウン大学Department of Neuroscience(Bregman教授)へ脊髄損傷に対する神経幹細胞移植の研究のため留学)
2000年10月
慶應義塾大学医学部助手(整形外科学)
2004年4月
慶應義塾大学医学部専任講師(整形外科学)
2007年4月
京都大学再生医科学研究所非常勤講師

学位・資格

1987年4月
医師免許取得(医籍登録310511号)
1995年11月
博士号(医学)取得(慶應義塾大学乙2873号)

所属学術団体等

  • Society for Neuroscience, International Spinal cord Society
  • 日本整形外科学会(移植再生医療委員会委員)
  • 日本脊椎脊髄病学会(評議員)
  • 日本脊髄障害医学会(評議員)
  • 日本運動器疼痛学会(評議員)
  • 日本再生医療学会、日本炎症再生学会
  • 日本脊髄外科学会
  • 神経組織の成長・再生・移植研究会

ロボット手術への挑戦
藤田保健衛生大学 上部消化管外科学 教授 宇山 一朗先生

写真4-1

手術支援医療ロボットの「ダ・ヴィンチ」のことをきちんと理解できたのは、2008年7月だ。韓国で開かれる手術にライブ参加したのがきっかけだった。それまでは「ロボットは手先の不器用な人たちが使うものだ」という偏見があった。だが、実際の映像を見て、自分が大変な勘違いをしていたことにすぐに気がついた。「日本人は手先が器用だ」と思い込み、ロボット手術に関して真剣に議論してこなかった日本人こそ、反省すべきだと思った。当時はまだ医療機器として未承認だったので、大学側が資金を出して私の名前で日本に輸入して使うことにした。
外科医をしていると、どうしても越えられない壁があることが分かる。例えば生理的な震えに対しては100%抗うことはできないし、老眼や近眼、乱視などにも逆らえない。ロボット手術では、それらを克服できることが特徴だ。まずは手ぶれがない。実際の術者の動きよりも、ゆっくりと小さな動きに変換することができる。また、人間の手以上の可動域があるので、これまでは器械が届かなかった位置にもアプローチできる。intuitive(直観的)に操作できるので、操作方法をあらかじめ覚えておくこともほとんどない。当然、カメラの倍率を何倍にも大きくできる。

写真4-2

現在は、ダ・ヴィンチを使った手術は保険が利かないので自費診療になる。胃がんで200万円程度かかることを考えると、割高だが、近未来は標準治療となるのは間違いない。そして、厚生労働省の認可をスムーズにするためにも、すべて国産の内視鏡手術支援ロボットが開発されると、外科医としてなお嬉しい。こういう話をしていると、外科医はオタクな世界に見えるかもしれない。だが逆にいえば、手術はいつもやりがいがあるといえる。

宇山 一朗先生の公演内容はこちら(YouTube)

演者略歴

宇山 一朗 先生
宇山 一朗(うやま いちろう)先生
藤田保健衛生大学医学部上部消化管外科学講座 教授
(1960年9月16日生)

学歴

1985年3月
岐阜大学医学部卒業

職歴

1985年4月
慶應義塾大学外科学教室入局
1988年5月
慶應義塾大学外科学教室助手
1991年5月
練馬総合病院外科医長
1997年5月
藤田保健衛生大学医学部外科学講師
2002年4月
藤田保健衛生大学医学部外科学助教授
2006年5月
藤田保健衛生大学医学部外科学教授

主たる学会認定医・専門医等

日本内視鏡外科技術認定医

略歴

2011年09月28日: テレビ東京「ガイアの夜明け」に出演いたしました。
9月27日(火)22時から放送のテレビ東京「ガイアの夜明け」に出演いたしました。
「切らずに治す~がん治療最前線~」をテーマにお話をいたしました。
2011年04月26日:ダ ヴィンチ手術実績
導入後、これまでの上部消化管におけるダ ヴィンチによる手術実績が、2011年4月19日に100例に達しました。
2010年02月18日:ダ ヴィンチ手術実績
導入後、これまでのダ ヴィンチによる手術実績は、胃癌27例、食道癌10例、肝臓癌6例、膵臓癌3例となりました。
2010年02月18日:ダ ヴィンチ手術の様子と手術創
ダ ヴィンチは、昨年11月18日に薬事承認がおり、今春くらいまでに先進医療を目指しています。そうなると、今後、より多くの患者さんにとって治療の選択肢のひとつになっていくと考えます。

大動脈瘤との戦い:手術不能の壁に挑む
東京慈恵会医科大学外科学講座 Chairman(統括責任者)
大木 隆生先生

写真5-1

私が外科医を続けているのは、「自分の技術で患者に喜んでもらえるとうれしい」の一言に尽きる。新しい器具や手術法を考え、その技術が人の命を救うという「トキメキ」は、何ものにも代えがたい。その前提となっているのは、完成された手術は1つもないということだ。何か完璧な手術があれば、それを達成すれば終わりだが、こと手術に限って言えば完成されたものは何もない。知恵を絞ればもっといいものがあるはずだ、と思い続けている。
例えば、何気ない頚動脈のプラークを取る手術でも改善の余地もある。私は無給医として米国に渡って研究を重ね、ステントグラフトの開発などで最終的には上級医の仲間入りを果たすことができた。私が上級医になった時は、私よりも年上の40代~50代で、当初は雲の上の存在だった医師たちのほとんどが部下になった。外科医であれば、より良い手術やデバイスを開発すれば、アメリカなど外国でも人種のハンディを乗り越えられるということだ。逆にいえば、同じことを他の科の医師がやろうとすると難しいかもしれないが、外科医なら可能なのだ。「大動脈瘤の恐怖で遠出ができなかったのに、術後すぐに温泉旅行に行けた」「100メートル歩けないのに歩けて、何とお礼を申し上げていいのやら…」など、患者からの声が来る。お金がもらえてここまで喜んでもらえるのは、外科医ならではだと思う。

写真5-2

また外科医の仕事は変化に富んでいる。10年後も20年後も同じ器具と手技で手術をしていることはまずない。手術やデバイスが進歩し続けているので、同じ仕事の繰り返しという期間はごく短い。毎日新しい仕事が待っている。私は100回生まれ変わっても100回外科医になりたいと思うし、生まれ変わるならビル・ゲイツになるよりも、大木 隆生でありたいと思っている。

大木 隆生先生の公演内容はこちら(YouTube)

演者略歴

大木 隆生 先生
大木 隆生(おおき たかお)先生
東京慈恵会医科大学外科学講座 Chairman(統括責任者)
(1961年8月12日生)

学歴

1987年
東京慈恵会医科大学医学部卒業

職歴

1989年
東京慈恵会医科大学第一外科入局、外科医員
1994年
東京慈恵会医科大学大学院卒業、医学博士取得
1995年
米国アルバートアインシュタイン医科大学モンテフィオーレ病院血管外科研究員
1995年
米国アルバートアインシュタイン医科大学モンテフィオーレ病院血管内治療科部長
1998年
米国アルバートアインシュタイン医科大学モンテフィオーレ病院血管外科部長
2005年~現在
米国アルバートアインシュタイン医科大学血管外科学教授
2006年~現在
東京慈恵会医科大学血管外科講座教授、診療部長
2007年~現在
東京慈恵会医科大学外科学講座Chairman(統括責任者)

プロフィール

慈恵医大を卒業後、外科専門医の資格を取得。動脈硬化症や大動脈瘤などの治療を専門にする血管外科医となる。95年に無給医として米国に渡り外科専門医を取得、ステントグラフトの開発に携わる。2005年から米国アルバートアインシュタイン医科大学血管外科学教授となり、「Best Doctor in NewYork」の血管外科医部門において4年連続で選ばれた。2006年に東京慈恵会医科大学に戻り、血管外科講座教授、診療部長を務める

その他

  • Japan Endovascular Symposium 代表世話人
  • Best Doctors in NY 2004, 2005, 2006選出
  • Newsweek japan 2000 「米国で認められた日本人10人」に選出
  • Newsweek Japan 2006 「世界で尊敬される日本人100人」に選出
  • 「Best teacher of the Year」2002, Albert Einstein College of Medicine

きみが外科医になる日~キッズセミナーのあゆみ~
長崎大学名誉教授 長崎市病院事業管理者 兼松 隆之先生(当会理事)

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小中学生が外科医の仕事を体験する「キッズセミナー」を実施したきっかけの1つに、テキサスヒューストン大学の臨床実習前の学生アンケート調査がある。これによると、「外科医に興味を持った学生は、入学前から外科医を志望するきっかけを刷り込まれていた」とあり、「外科医に興味がない学生は、入学後に何らかのネガティブイメージを刷り込まれていた」という結果が出た。つまり、学生が医学部に入った時点で外科医になるよう勧誘しても、もう手遅れだということだ。「子どもたちに外科医のプラスイメージを植え付ければ、何かが変わるかもしれない」という思いから、キッズセミナーをスタートした。
2005年7月の第1回は、所属していた長崎大学の付属小学校に頼んで、キッズセミナーに参加してもらった。広告・宣伝しても、キッズセミナーに人が集まるとは思えなかったからだ。2回目は長崎県の五島市福江という離島で開催した。長崎県には600の離島があり、そこに医師を派遣するのは難しく、都内の学生を呼んでも外科医として来てくれるわけがない。ならば、離島の人たち自身の中から、未来の外科医を生み出すしかないと思って、ここで開催したのだ。それ以来2010年末までに、全国で52施設90回、全国で約3000名の子どもたちが参加している。

写真6-2

2011年7月には、長崎市の子どもたちとスーダンの人たちが参加する「ブラック・ジャックセミナー」を開催し、日本の外科を体験してもらった。これは、私の九州大学医学部時代の後輩でもあり、スーダンで医療活動をするNPO法人「ロシナンテス」の川原尚行代表に尽力してもらったおかげだ。川原先生は、私の九州大学外科時代の後輩で、かつては外務省の医務官として働いていたが、今はボランティア活動に精を出している。彼は、スーダンの人たちを日本に招いて、このたびの大震災で被災した子どもたちと運動会を開催した後、長崎の子どもたちとブラック・ジャックセミナーを開催した。外科を通じて、日本とスーダンの子どもたちが友好を深められたのだ。こうやって、キッズセミナーも広がりを見せている。

兼松 隆之先生の公演内容はこちら(YouTube)

演者略歴

兼松 隆之 先生
兼松 隆之(かねまつ たかし)先生
特定非営利活動法人 日本から外科医がいなくなることを憂い行動する会 理事
長崎大学名誉教授・長崎市 病院事業管理者
(1945年7月8日生)

学歴

1971年3月
長崎大学医学部卒業

職歴

1971年4月
九州大学医学部第二外科入局
1971年6月
九州大学医学部附属病院 医員(研修医)
1976年4月
早良病院外科
1976年6月
九州大学大学院医学研究科修了・医学博士
1976年7月
アメリカ合衆国ミネソタ州Northwestern Hospital 病理レジデント
1977年7月
アメリカ合衆国ノースカロライナ州New Hanover Memorial Hospital 外科レジデント
1978年8月
国立別府病院外科 医師
1979年4月
九州大学医学部附属病院 助手
1983年7月
九州大学医学部附属病院 講師
1986年8月
九州大学医学部第二外科 助教授
1991年6月
長崎大学医学部第二外科 教授
2002年4月
長崎大学医学部長(平成18年3月まで)
2002年4月
長崎大学院医歯薬学総合研究科移植・消化器外科(組織再編により)教授配置換え
2010年4月
長崎大学名誉教授・長崎市病院事業管理者

国内学会

日本外科学会(2008年会長 現監事)、日本消化器病学会(監事)、日本肝胆膵外科学会(幹事)、日本外科系連合学会(評議員)、日本癌学会(評議員)、日本臨床外科学会(評議員)、日本肝臓学会(評議員)、日本腹部救急医学会(評議員)、日本消化器外科学会(評議員)、日本肝癌研究会(幹事)、日本再生医療学会(評議員)

国際学会

Fellow of American College of Surgeons(FACS)

手術を極める
岩手医科大学 医学部外科学講座 教授 若林 剛先生(当会理事)

写真7-1

私が20数年外科医をやっていて変わらない思いは「手術を極めたい」という気持ちだ。
手術技術は向上するものだし、手術そのものも進化している。代表的なのが、低侵襲手術の開発と実現だろう。私が20年近く前にアメリカにいた頃、腹腔鏡下の胆嚢摘出手術の1例目が誕生した。当時の日本のマスコミは、わずかな傷で内臓を切って治してしまう「マジックのような手術」だと報道した。当時の同僚たちと、その手術の素晴らしさについて何時間も熱く語り合ったことを、今でも覚えている。
外科医をしていて不思議なのは、なぜか困難な手術ほど達成感も高いことだ。これは決して難易度の低い手術を軽んじているということではなくて、1つの技術を身につけると、さらに患者に良いと思われる手術・手技を覚えたくなる。今は、年に何例も移植手術を手がけるようになったが、外科医になった当初は糸結びもできなかった。そんな私でも、20年も経つと移植ができるようになる。これが外科医の醍醐味なのだ。

写真7-2

長年、手術に関わっていると、医師から明言が生まれる。「広く浅く」とか「剥離は表層から」といったものだ。中でも感心したのが「終わらない手術はない」という言葉だ。平均で数時間、移植手術になると日をまたぐことも珍しくない手術の現場で、「この手術は本当に終わるのか?」と絶望的な気持ちになることがある。だが「終わらない手術はない」のだ。この言葉が、外科医に希望を与えてくれる。
外科医として身にしみて感じるのは、チームワークの大切さだ。チームのことを考えないといい手術はできない。外科医はチームの中心にいるが、自分だけで手術を成し遂げていると思っているとすれば大間違いだ。あらゆるスタッフが連携し、各自が最高のパフォーマンスを出して調和しないと、救えない命もある。移植手術を手がけていると、レシピエント側とドナー側の調和がとれていないとどうしようもないと、否が応でも思い知らされる。興味があるなら、ぜひ、やりがいのある外科医の世界に飛び込んでみるといい。

若林 剛先生の公演内容はこちら(YouTube)

演者略歴

若林 剛 先生
若林 剛(わかばやし ごう)先生
岩手医科大学外科学講座 教授、岩手医科大学附属病院 外科部長
(1957年3月24日生)

学歴

1982年
慶應義塾大学医学部卒業

職歴

1982年
慶應義塾大学病院研修医(外科)
1984年
慶應義塾大学医学部外科学教室専修医
1988-1991年
Research Fellow, Department of Surgery, Harvard Medical School and Massachusetts General Hospital, Boston
1991年
川崎市立川崎病院外科副医長
1993年
慶應義塾大学医学部外科学教室助手
1994年
Visiting Surgeon, Transplantation and Hepato-Pancreato-Biliary Surgery Unit, Free University School of Medicine and Rudolf Virchow Hospital, Berlin
2001年
慶應義塾大学医学部外科学教室専任講師
2001年
Visiting Surgeon, Liver and GI Transplant, Miami University School of Medicine, Miami
2005年9月
岩手医科大学医学部外科学第一講座教授
2006年7月
外科系講座再編により外科学第一講座より外科学講座へ名称変更(小児外科部門を統合)

プロフィール

慶應義塾大学医学部卒業、ハーバード大学外科留学、慶應義塾大学一般・消化器外科専任講師を経て2005年9月より岩手医科大学外科学講座教授、専門は一般・消化器外科とくに肝胆膵疾患、肝移植、内視鏡外科、2007年1月に岩手県初の生体肝移植を成功させたが、からだにやさしい外科治療も実践している。日本外科学会、日本消化器外科学会、日本肝胆膵外科学会、日本内視鏡外科学会、日本小児外科学会などで要職を努める。

懇親会の様子

Copyright © 日本から外科医がいなくなることを憂い行動する会. All Rights Reserved.

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