特定非営利活動法人 日本から外科医がいなくなることを憂い行動する会(若手外科系医師を増やす会)

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震災を乗り越えた外科医の体験を聞き入る
きみが外科医になる日セミナー仙台開催

目次

外科医を目指して
東北大学 消化器外科学分野 大学院生 土屋 朗之先生

2001年に弘前大学医学部に入学したが、ラグビーに夢中で、それほど勉強したわけではなかった。2007年に仙台徳洲会病院に入り、初期研修と後期研修を受けた。夜もろくに寝られないほどの当直を月に7~8回担当しており、多くの症例を学べたことが良かった。2010年からは石巻市立病院に移って外科の研さんを積んだ。

写真1

2011年3月11日、石巻市立病院で胃の摘出手術をしている時に大きな地震があった。揺れが収まるのを待って手術を再開したところ、外科部長の内山哲之先生が手術室に入ってきた。何かあったら大変だからと、残りの執刀は内山先生が行った。ほどなくして津波の情報が寄せられた。周りがざわつく中、電源が落ちてしまった。懐中電灯の明かりを頼りに、患者さんの手術を終えた。全員が4階に避難したところ、まもなくして津波が押し寄せてきた。
津波が去った後、通信手段が全て途絶えた。職員たちは点滴を飲み、非常食を食べるなどしてつないでいたが、次第に患者さんたちも弱ってきた。特に胃の摘出手術をした患者さんの消化器を早くつながなくてはならなかった。まだ腰の高さまで海水が満ちていたが、誰かが石巻市役所に行って救助を要請することになった。「ある程度発言力のある人が行かないと救助は来ないかもしれない」と、内山先生と事務部長が向かうことになった。大震災から4日目にようやく救助のヘリコプターが来て、患者さんを搬送できた。その後も、私は学校の体育館などで被災した市民の健康管理などを担当していたが、内山先生は「これでは外科の技術を身につけられない。東北大学に戻って勉強した方がいい」と言われ、東北大学大学院消化器外科学分野に入学した。
2012年に内山先生は石巻赤十字病院に移り、まもなく急死した。大震災後のストレスや疲労が溜まったのだと思う。結局、震災関連死として扱われたようだ。内山先生は、大震災ですばらしいリーダーシップを発揮しただけでなく、日頃から「何かあったら全部私が責任を取るから思い切って執刀しろ」と言う男気のある医師だった。休日の臨時手術にもほとんど携わっていた。内山先生に直接恩返しできる機会は失ってしまったが、先生から教わったことを胸に日々外科の研さんを積んで、少しでも先生に近づくことが唯一の恩返しだと思っている。

演者略歴

土屋 朗之 先生
土屋 朗之(つちや はるゆき)先生
東北大学 消化器外科学分野 大学院生

略歴

2001年4月
弘前大学医学部医学科 入学
2006年3月
弘前大学医学部医学科 卒業
2007年4月
仙台徳洲会病院 初期研修
2009年4月
仙台徳洲会病院 外科 後期研修
2010年4月
石巻市立病院 外科 後期研修
2011年4月
東北大学大学院 消化器外科学分野 入学

外科医にならずに後悔しませんか?
青森県立中央病院 心臓血管外科 伊藤 校輝先生

外科医というのは、颯爽としてカッコいいイメージがある。テレビや報道で取り上げられる医師は、外科医が圧倒的に多い。手術が診療の中心で個々の医師の技量が直接反映される外科は、非医療者から見ても比較的理解しやすく、“only one”が生まれやすい科である。また、日本の外科医は手術だけを担当する訳ではない。内科的知識や麻酔、リハビリ、栄養、緩和医療までを総合的に理解する必要がある。つまり、外科医をつきつめれば、幅広い治療に対応できるオールマイティな医師になれる可能性がある。

写真2

一方、医学生の立場で見ると「外科医は忙しくて休みがない」「子育てをする時間(余裕)がない」という印象があると思う。外科医は忙しくないとは言わないが、どの診療科の医師も忙しいのは変わらない。医学生の皆さんがこれから実習に行けば分かると思うが、“楽”な診療科などない。患者さんが吐血すれば消化器内科医が呼ばれるし、心筋梗塞が起これば循環器内科医が呼び出される。私は当直中に小児科や内科の診察室の前を通ることがあるが、夜中でも患者が途絶えない。外科系診療科では、忙しいがメリハリのある勤務ができていると思う。
「外科医は一人前になるのに時間がかかる」とネガティブな意味で言う人がいるが、それは悪いことではないと思う。常に向上する喜びがあるし、一人前になった時の喜びはひとしおだろう。私が学生だった頃は、まず「外科をやりたい」というのがあって、どの臓器にするか迷っていた。中でも心臓血管外科分野は、難易度が高い分、やりがいを感じている。
臨床医として重要な仕事は、病気に苦しむ目の前の1人の患者さんを、苦しみから解放してあげることだろう。外科医の仕事の魅力は、自分の目の前で、自分の手の内で完結できることだと思う。医学生の皆さんには「外科医にならずに後悔しませんか?」と投げかけたい。

演者略歴

伊藤 校輝 先生
伊藤 校輝(いとう こうき)先生
青森県立中央病院 心臓血管外科

略歴

2006年3月
東北大学医学部医学科 卒業
2006年4月
武蔵野赤十字病院 初期臨床研修医
2008年4月
川崎市立川崎病院 外科後期研修医
2010年4月
東北大学大学院医学系研究科医科学専攻 外科病態学講座心臓血管外科学分野
2014年3月
博士課程修了
2014年4月
青森県立中央病院 心臓血管外科

未来の輝ける 女性外科医のみなさんへ
東北大学病院 乳腺内分泌外科 佐藤 章子先生

小3と小1の子どもの母親で、夫も外科医だ。産後外科をあきらめた時期もあったが、周囲の理解協力があって再び外科医として勤務している。
外科に進んだきっかけは5年生の外科実習の際、先生方がフランクで雰囲気が良く、楽しそうに手術をしていたことが決め手となった。仙台市立病院の外科で研修し、3次救急や多くの臨時手術を経験した。恩師の言葉「天才はいない。外科医に大事なのは続けることができる才能だ」は今も心に刻んでいる。3年目に後輩だった夫と結婚し、東北大学第二外科入局、その後すぐに出産となった。「結婚、出産のベストタイミングは?」と聞かれることも多い。一般的には専門医取得後といわれるが、出会いはご縁とタイミングであり、結婚したいと思った時がベストタイミングだと個人的には思っている。

写真3

出産後はすぐに外科を辞めた。当時は身近にロールモデルがおらず、他の先生と同等に仕事ができないことが負担だったからだ。3年間外科を離れて専業主婦をしていたが、次第に「これは自分がなりたい人生とは違う、外科に戻りたい」と思うようになった。恩師から「旦那と2人で1.5人分働けばよいのでは?」といわれて一気に気持ちが楽になり、懐の深い先生方、医局のおかげで、第二外科に再び戻れることになった。
復職形態も初めは負担の少ない外来診療からはじめた。大学院生としての研究期間を経て無事博士学位を取得し、現在は周囲の理解協力のおかげで日中は大学病院で勤務、夜は家庭に専念というワークライフバランスのとれた生活ができている。乳腺外科は、検診からスタートして、診断から治療、最期の時を迎えるまで患者さんを診ることができる魅力的な科だ。
現在、東北大学乳腺外科の若手女性医師は11名中10名が結婚し、うち7名が子育てを経験している。院内に保育園、病児保育があり当科の支援体制も整ってきている。
国家試験合格者の3割、医師の2割が女性という時代になった。女性は卒後11年で出産、育児を理由に就業率が最低になる。育児や介護中は周囲に対して肩身が狭く申し訳ない気持ちになるが、それを感謝の気持ちに変えてほしい。与えられた環境の中でできることを積み重ねていくことがキャリア継続につながり、医師として社会貢献できることにつながるだろう。診療科を選ぶ際は男女問わず、人生のさまざまなライフイベントを乗り越えてずっと続けていきたいと思える診療科を選ぶことが大切だと思う。

演者略歴

佐藤 章子 先生
佐藤 章子(さとう あきこ)先生
東北大学病院 乳腺内分泌外科

略歴

2002年4月
仙台市立病院外科研修(3年間)
2005年4月
東北大学第2外科入局
2005年5月
第1子出産、以後休職(3年間)
2007年7月
第2子出産
2008年4月
第2外科に復職(大学院生として)
2013年9月
学位(博士号)取得
2014年4月
特任助手

膵臓がんとの闘い Know it, Fight it, End it
NPO法人 パンキャンジャパン 代表 眞島 喜幸先生

世界的に見て乳がん患者の生存率は、この40年間で75%程度から90%まで伸びた。白血病だと34.4%から58%程度まで上がっている。ところが膵臓がんは、過去40年間でほとんど治療成績が伸びていない。生存率は1ケタ代のままだ。米国では、肺がんや肝臓がんと並び、膵臓がんは「治りにくいがん」だとされている。パンキャンは、膵臓がんの生存率を高めるために何かしようと1999年に膵臓がん患者の家族が立ち上がげたものだ。私は、妹を膵臓がんで亡くしたことをきっかけに、その日本法人の立ち上げに参画した。「研究促進」「患者・家族支援」「政策提言」の3点を活動方針として、活動色である紫色のTシャツやのぼりを立てて活動している。

写真4

厚生労働省の統計によると、膵臓がんの年間死亡者数は1970年の4,339名から年々増加し、2011年は29,017名となっている。この数字は、国内のがん死亡者のワースト5に入る。これを改善するための活動として、パンキャンジャパンでは「ドラッグラグ問題」の解消に向けて取り組んでいる。膵臓がんに対する抗がん剤は、米国では9種類あるが国内ではジェムザールとTS-1しか認められていない。そこで、当会では31,000名以上の署名を集めて厚生労働省に対して要望書を提出した。その後、不定期だった海外薬の承認促進作業を通年で行うことが決定されるなど、膵臓がん患者にとって大きな進歩があった。
膵臓がんが早期(Ⅰ期)に発見されれば、生存率は60%と高い。だが実際は、早期に膵臓がんを見つけることは難しい。私は妹を膵臓がんで亡くしているため、家族性膵臓がんの可能性があるとして2007年から経過観察してきた。CT画像がこれまでとは様子が変わったことをきっかけに、2011年に膵臓を全摘してもらった。膵臓がんとして診断されたもののうち、外科手術が行われるのはほんの2割しかないが、最終的には膵臓がんを切除してもらわないと治らない。切らないと治らない病気がある以上、外科医の役割は非常に大きい。ぜひ外科医になって、膵臓がん撲滅のために協力してほしい。

演者略歴

眞島 喜幸 先生
眞島 喜幸(まじま よしゆき)先生
NPO法人 パンキャンジャパン 代表

略歴

Ottawa University、UCLA School of Public Healthを卒業後、Rand Corporationにて健康政策分析プロジェクトに参画した。2006年に実妹を膵臓がんで亡くし、膵臓がん患者支援団体Pancreatic Cancer Action Networkの日本支部パンキャンジャパンを設立。その後、自身も家族性膵臓がんの疑いがあると知り、精密検査を受けたところ、膵臓がんの前駆病変である膵管内乳頭粘液性腫瘍(IPMN)と診断された。ハイリスクグループとして定期的に経過観察を受けてきたが、2012年に膵癌が見つかり、膵臓全摘手術を受けた。膵臓がんについてもっと知ってもらうため、パープルリボンキャラバンを2009年スタート。「膵臓がんに光をあてる」と題した医療セミナーを通して、地元の専門医と患者の橋渡しにも努めている。

委員

  • 厚生労働省 がん対策推進協議会 委員(終了)
  • 厚生労働省 厚生労働科学研究費補助金がん政策研究事業 中間・事後評価委員会 委員
  • 厚生労働省 平成26年度研究成果等普及啓発・がん医療均てん化推進専門委員会 委員
  • 文部科学省 次世代がん研究戦略推進プログラム アドバイザリーボード 委員
  • 日本製薬工業協会 患者アドバイザリーボード 委員
  • 日本膵臓学会 家族性膵癌登録委員会 委員
  • 日本膵臓学会 膵癌診療ガイドライン策定委員会 委員
  • 千葉県がんセンターの腹腔鏡下手術に係る第三者検証委員会 委員

研究

厚生労働科学研究費補助金 医療技術実用化総合研究事業「一般利用者の視点に基づく臨床試験コンテンツ作成とポータルサイト構築に関する研究」研究員

外科医 昨日、今日、明日
労働者保険福祉機構 東北労災病院 副院長 徳村 弘実先生

高校生の頃は漠然と東北大学の工学部に入ろうと思っていたが、母親の勧めで安易に医学部に鞍替えした。当時は「母親は、私を医師にすることで将来裕福にさせようとしたのだろう」と安易に考えていた。だが今になり、認知症の症状があらわれてきた母親が「私の妹は両親に内緒で医学部を受験して合格したが、父から大反対されて泣く泣く医学部を断念した。だからあなたには、どうしても医師になってほしかった」とつぶやいた。今さらそんな事情があったことに驚いた。

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大学6年生になり、東京にある三井記念病院のレジデント制にあこがれて、10倍の難関を突破した。だが合格直後に妹の病気が発覚した。これはいずれ妹の面倒を見なければならないかもしれないと、仙台に残る決心をした。先輩医師からの勧めもあり、東北労災病院で研修することになった。
外科医人生の中で大きく影響を受けたことを2つ紹介する。東北大学第一外科の教授で、東北大学や東北労災病院の病院長も務めた槇哲夫先生に、大いに影響を受けた。槇先生は、米国などでは「M r Gallstones(胆石)」と呼ばれており、私が腹腔鏡下手術に取り組むきっかけとを与えてくれた。もう1つは『外科の夜明け』という本だ。1848年に、エーテルを使った全身麻酔による無痛手術が行われ、これ以降に近代医学が大きく発展したが、それ以前の医学がどのように発展してきたのかが書かれている。夜明け前の医学は凄惨を極めている。例えば、痔瘻を焼けた火箸で焼切って治療をしていた。またクリミア戦争では、大きなけがをした患者よりも軽傷の患者の方が死亡率が高かった。敗血症を恐れるあまり、軽症の患者の手足を切り落とすことも多かったことなどが紹介されている。
外科医は「真・善・美」の3つが揃っていないとだめだと思う。手術方法が正しいかどうかを判断するのは、患者さんにとって良いもので、結果として手術痕も美しくなる。これからは真・善・美をより追求するため、3D映像を使った手術やダ・ヴィンチなどのロボット手術がどんどん普及していくことになる。自分の晩年になってこんな夢のような医療機器が登場していることが非常に残念だ。医学生の皆さんは、これからこのような素晴らしい道具を使って、私がうらやましくなるほどの治療に励んでほしい。

徳村 弘実 先生
徳村 弘実(とくむら ひろみ)先生
労働者保険福祉機構 東北労災病院

略歴

1978年3月
東北大学医学部卒業
1984年4月
学位取得(ビリルビンカルシウム石の溶解崩壊)

資格・認定医

1978年4月
東北労災病院外科研修
1980年9月
東北大学第1外科
1984年1月
東北大学第1外科助手
1984年4月
町立大河原病院(現・みやぎ県南中核病院)外科医長
1989年9月
東北労災病院外科副部長
1999年4月
同外科部長
2008年7月
同副院長

研究

  • 外科指導医・専門医、消化器外科指導医・専門医
  • 日本消化器病学会専門医・指導医、日本内視鏡外科学会技術認定医
  • 東北大学肝胆膵外科 臨床教授、昭和大学 客員教授

学会理事・評議員その他

  • 日本内視鏡外科学会理事、日本ヘルニア学会監事
  • 日本消化器病学会評議員、日本臨床外科学会評議員
  • 日本肝胆膵外科学会評議員、日本胆道学会評議員
  • 日本腹部救急医学会評議員、日本職業災害医学会評議員
  • 全国労災病院外科研究会代表世話人
  • 腹腔鏡下胆道手術研究会代表、単孔式内視鏡手術研究会顧問
  • 内視鏡外科フォーラム東北 代表世話人
  • 日本内視鏡外科学会ガイドライン委員会幹事委員(胆道)
  • 日本内視鏡外科学会規約委員長、ELSA会員
  • Asian journal of endoscopic surgery編集委員

学会長

  • 第1回単孔式内視鏡手術研究会会長(2010.2.21)
  • 第1回腹腔鏡下胆道手術研究会会長(2012.2.28)
  • 第11回日本ヘルニア学会(2013.5)

賞罰

  • 第12回日本内視鏡外科学会カールストルツ賞受賞
  • 第20回仙台市医師会学術奨励賞
  • 平成23年東北大学医学部高橋記念賞

私が外科医として 過ごした日々
東北大学 総長 里見 進先生

沖縄の那覇高等学校を卒業後、日本への国費留学生として東北大学医学部に入学した。ゆくゆくは沖縄に戻る可能性もあったので、一度は東京で生活したいと思い、東京の済生会中央病院で勤務した。内科の免疫学に興味があったが、外科をやりたい気持ちがあってそちらを選んだ。そこでは遊離空腸での食道再建術や肝切除術など、当時としては最先端の手術を行っていた。その後、秋田にある由利組合総合病院に異動した。東北の病院は医師を囲い込まず、ある程度技術が身に付いてくると「一度、大学に戻って勉強をしたらいい」と薦めてくれる。そもそも免疫にも興味があったので、移植外科(腎移植)のある東北大学の第二外科に入局した。

写真6

当時の腎移植の成績は現在ほど良くはなかった。腎移植患者において急性拒絶反応を早期に発見する方法として、細胞性免疫反応に加えて液性免疫反応が有効なことや、フローサイトメトリーでリンパ球の幼弱化を診ることが重要であることなどを、論文で報告した。研究をまとめ上げた頃に、ハーバード大学への留学の話が持ち上がり、留学した。
再び東北大学に戻った1988年頃、肝移植に関する機運が高まってきた。オーストラリアで世界初の生体肝移植手術が行われ、翌年には島根医科大学でも最初の肝移植が実施された。東北大学でも犬や豚を用いた生体間移植実験を行った後、91年には第一例目の生体肝移植を実施した。レシピエントは1歳10カ月の男児で、ドナー(臓器提供者)は35歳の母親だった。手術時間は16時間45分に及んだ。初期の肝移植は小児への生体肝移植が主流であり、移植された臓器が大きすぎる場合にはシリコンシートで仮の被覆を行い、その後に時間をかけて閉腹することも行われた。症例ごとに感染症や胆道合併症などの課題を克服することで徐々に成績は向上していった。
90年代後半からは、脳死移植が行われるようになった。脳死からの臓器提供には意思表示が求められたので、「(臓器提供)意思表示カード普及委員会」を立ち上げて、臓器提供に関する意思表示ができる運動を展開した。脳死臓器移植1例目の腎移植を執刀した際には、やっと脳死移植が実現したと感慨深いものがあった。その後、2006年には東北大学病院で多臓器同時移植(肺、肝臓、膵臓/腎臓の4臓器を3名の患者に移植)を実施した。また臓器移植法が改正された3カ月後には、臓器移植と臓器提供を同時に行う特殊な機会も経験した。いずれも本邦初の出来事であった。東日本大震災では東北大学病院も大変な被害を被った。しかしながら震災約1か月後の4月13日には、臓器移植法改正後初の小児からの臓器提供による肺移植を行うことができた。
移植で患者が元気になり、スポーツ大会で活躍したり、成長して結婚し出産している姿などを拝見すると、「外科医でよかった」と思う。
外科の歴史は切除から再建、臓器移植と続いている。今後は臓器再生が主流になるかもしれない。また、内科と外科の領域が重なり、両者が共同で実施するハイブリッド手術も脚光を浴びるだろう。可能性を信じて挑戦する若き医学生を、外科は待っている。

演者略歴

里見 進 先生
里見 進(さとみ すすむ)先生
東北大学 総長

学歴

昭和49年3月
東北大学医学部医学科卒業
昭和59年2月
医学博士学位授与(東北大学医1556号)

職歴

昭和49年4月
東京都済生会中央病院勤務
昭和50年4月
秋田県厚生連由利組合総合病院勤務
昭和52年6月
東北大学医学部附属病院第二外科入局
昭和56年1月
東北大学大学院医学研究科研究生
昭和57年5月
東北大学附属病院第二外科助手
昭和59年1月
ハーバード大学研究員
昭和61年1月
東北大学医学部第二外科助手
昭和63年10月
東北大学医学部第二外科講師
平成7年10月
東北大学医学部第二外科教授
平成11年4月
東北大学大学院医学系研究科 外科病態学先進外科学分野教授(配置換え)
平成16年11月
東北大学病院長
平成17年4月
東北大学副学長
平成24年4月
第21代東北大学総長
平成25年6月
国立大学協会副会長(現在に至る)

役員・学会関係

  • 日本外科学会 監事(前理事長)
  • 日本医学会 幹事
  • 日本医学会 臨床部会運営委員会副委員長
  • 日本医療安全調査機構 理事
  • NCD(National Clinical Database)代表理事
  • 日本専門医制評価・認定機構 副理事長
  • 日本静脈経腸栄養学会 理事
  • 日本臓器保存生物医学会 理事
  • 日本肝胆膵外科学会 評議員
  • 日本移植学会 評議員
  • 日本食道学会 評議員
  • 日本腹部救急医学会 評議員
  • 日本臨床腎移植学会 評議員

主な研究業績

  • 生体肝移植治療成績の向上
  • 臓器障害機序の解明と予防法の開発
  • アミノ酸による肝再生とその臨床応用
  • 食道癌低侵襲手術法の開発

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